中学歴史「江戸時代の政治改革」テストに出るポイントまとめです。
江戸時代初期の政治
徳川家康は、豊臣氏の戦力を抑え、江戸に幕府を開く。
- 関ヶ原の戦い…1600年石田三成らを倒す。
- 江戸幕府…1603年徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府開く。江戸時代が始まる
- 大阪の陣…1614年・15年豊臣氏を滅ぼして、権力を確立。
- 幕藩体制…幕府と藩が全国の土地と人民を支配。
- 幕僚…幕府が直接支配した土地。
- 藩…大名の領地とその支配の仕組み。
- 武家諸法度…大名を統制。無断の城改築などを禁止。
- 参勤交代…大名が1年おきに領地と江戸を往復。五街道の整備につながる。3代将軍徳川家光が制定。
- 禁中並公家諸法度…天皇公家の行動規制。
江戸初期は、大名や朝廷の力をおさえ、幕府権力の基礎が固められた。
朱印船貿易
キリスト教の拡大された幕府は、禁教と鎖国を行った。
- 朱印船貿易…徳川家康が朱印状を出し、東南アジア貿易をが盛んになった。各地に日本町ができる。
- 禁教令…キリスト教信仰を禁止。
- 島原・天草一揆…キリスト教徒の一揆。
- 鎖国…ポルトガル人を追放。オランダ商館を長崎の出島に移す。中国船・オランダ船以外との貿易を禁止。鎖国下の対外関係では、オランダ、中国以外とも交流。
- 朝鮮と国交回復…朝鮮通信使の来日。対馬藩が窓口。
- 琉球王国…沖縄県にあり、薩摩藩が支配。中国にも朝貢。
- 蝦夷地…松前藩がアイヌの人々との交易を独占。
鎖国でも朝鮮、琉球、蝦夷地などとの交流が行われた。
武家諸法度
幕府は、大名の勢力を弱めて反抗を防ぐため、1615年に2代将軍徳川秀忠の名前で初めて武家諸法度を定め、幕府の許可のない城の修理、大名家どうしの結婚などを禁じた。以後、この法度は、将軍が代わるたびに出された。
- 文武弓馬の道(学問と武芸)にはげむこと。
- 大名は領地と江戸に交代 で住み、毎年4月中に参勤せよ。
- 新しく城を築いてはならない。
- 石垣などの修理は奉行所にとどけ出ること。
- 大名は幕府の許可なく、かってに結婚してはならない。
- 米500石を積むことができ る船を建造してはならない。
など
3代将軍徳川家光のときの武家諸法度(1635年)では、新たに参勤交代が制度化され、大船建造の禁止が追加された。
参勤交代
参勤交代は、大名が1年おきに江戸と国元(藩)を往復するもので、妻子は実質的に人質として江戸におかれた。この江戸と国元の二重生活の負担で、大名は経済的に苦しんだ。武家諸法度に違反した大名は、改易(領地を没収し、藩を取りつぶす)・国替など、きびしく罰せられた。
文治政治のポイント
5代将軍徳川綱吉は、湯島(現在の東京都文京区)に孔子をまつる聖堂を移して、朱子学(儒学の一派)を幕府公認として、学問や道理にもとづく文治政治を行いました。
- 朱子学を官学として、湯島に聖堂を建立。
- 生類憐みの令…病気の生類を捨てることを禁じ、食料のために魚、鳥、亀、貝を売ることを禁止。
- 貨幣改鋳…低品位で大量発行。しかし、低品位貨幣では同額面では売りたくないため物価が上昇。
文治政治の背景
それまで、江戸時代初期には、武力でおさめる武断政治が行われていました。多くの大名が取りつぶされて牢人が増加していました。これらの牢人の中には、幕府を倒そうとする者が現れ、社会不安が引き起こされました。その例が、由井正雪の乱です。そこで、幕府は、武断政治を改めるに至りました。
また、綱吉は生類憐みの令を次々と出して、とくに犬を保護したことから「犬公方」とよばれて、人々の反感をかいました。生類憐みの令とは、極端な動物愛護令でした。動物を殺すことや食べるために飼うことを禁止しました。
文治政治のころの風潮
1657年に明暦の大火の被害に加えて、寺院建築に多額の費用を使ったことなどで財政がひっ迫していました。そのうえ、これらに、金銀の産出量が減ったことが財政難に拍車をかけました。そこで、幕府が貨幣の質を落として、発光量を増やしたため、かえって物価が上昇し、人々を苦しめることになりました。
正徳の治のポイント
朱子学者の新井白石は、綱吉の死後、6代家宣・7代家継の2代の将軍に仕え、文治政治をおし進めた(正徳の治)人です。新井白石はまず、綱吉の遺言に反して、人々を苦しめていた生類憐みの令を廃止して、幕府の儀式・制度や服装を整えて、将軍の権威を高めようとしました。儒学者の新井白石の政治で、典型的な文治政治です。
- 朝鮮通信使の待遇簡素化
- 閑院宮家の創設
- 高品位貨幣の発行…物価の安定
- 1715年正徳新令…長崎貿易での金銀流出防止
などを行う。
正徳小判
朝鮮通信使の接待を簡素にするなど、外国に対しても将軍の権威を示そうとしました。また、幕府財政の安定をはかるために、低下した貨幣の質を上げて(正徳小判)、物価の上昇をおさえようとしました。長崎貿易では1715年に、金銀の国外流出を防止するため、年間の貿易額を中国船30隻・銀6000貫、オランダ船2隻・ 銀3000貫に制限しました(正徳新令)。
享保の改革のポイント
徳川吉宗は、1716年、紀伊藩主から8代将軍となり享保の改革をすすめる。質素・倹約をかかげて実施。
- 上米の制…参勤交代で大名が江戸にいる期間を短くするかわりに、幕府に米をおさめさせた。
- 公事方御定書…公平な裁判の基準となる法律。
- 目安箱…民衆の意見を取り入れるために置かれた。
徳川吉宗は、武士に質素・倹約をすすめるとともに、能力のある人材を役人に登用し、「足高の制」を定めて、在任中は役職につりあった禄高(給料)をあたえました。また、裁判の公正をはかるために公事方御定書を定め、庶民の意見を聞くために目安箱を設置しました。享保の改革により、幕府の財政は一時的に持ち直した。
享保の改革のころの様子
農村では、問屋制家内工業が確立。問屋制家内工業とは、農民が作物を自分で加工して売る家内工業が発達し、問屋も農民から製品を安く買い取ることができるようなりました。
19世紀頃には、工場制手工業(マニュファクチャー)が出来始める。商人や地主が工場をつくり、人を雇って製品をつくる者も現れ近代工業の礎に。
田沼の政治のポイント
老中の田沼意次による財政の立て直し。
- 株仲間の奨励…特権を与え、営業税を徴収した。
- 開発計画…蝦夷地の調査、印旛沼の開拓など。
- 天明のききん…百姓一揆や打ちこわしが多発し、田沼は老中をやめさせられた。
田沼意次は、商人の豊かな経済力を利用した積極的な協策を行った。商工業者が株仲間(同業者組織)を結成することをすすめ、これに営業を独占させる特権をあたえる代わりに、運上金や冥加金などの営業税を納めさせ、幕府の収入を増やそうとした。
長崎貿易
長崎貿易では、オランダや中国への銅や俵物(アワビ・ナマコなどの干した海産物)の輸出を奨励して、金・銀の国外流出を防ごうとした。また、金・銀の輸入をはかり、貿易の拡大に努めた。さらに、印旛沼や手賀沼(千葉県)の干拓を進め。蝦夷地(現在の北海道)の開拓も計画した。しかし、田沼は商人との結びつきを批判され、天明のききん(1782~87年)が発生し、百姓一揆・打ちこわしが多発するなかで1786年、将軍家治の死とともに失脚した。
渋染一揆
1855年に岡山藩では、「えた」身分の人々に対して「衣類は柄のない藍染(青色)・渋染(茶色) のものに限る」 などの決まりをつくった。1856年、この差別政策に人々は団結して立ち上がり、これを行わせなかった。
寛政の改革のポイント
老中の松平定信の倹約政策。
- ききんへの備え…各地に倉を設けて、コメをたくわえさせる。都市に出てきた農民を故郷に帰すなどした。
- 朱子学以外の学問の講義を禁止
- 藩札…財政難に苦しむ諸藩が発行した藩独自の紙幣。
松平定信は封建支配を強化するために、文武(学問と武芸)をすすめ、幕府の昌平坂学問所では朱子学以外の講義を禁止し (寛政異学の禁)、役人の登用試験も朱子学に限りました。生活に苦しむ旗本・御家人に対しては、質素・倹約を命じる寛政の改革は、厳しい政策が多く、人々の反感をまねいた。
寛政の改革のころの様子
農民たちは貧しさに耐えきれなくなり江戸や大坂などの都市に出稼ぎ、しかし、農村の人口が大きく減ることになり、土地は荒廃し、年貢の収入も減ることとになり、江戸幕府は困惑。
松平定信は、江戸や大坂などの都市で生活している農村出身者を農村にかえし、出稼ぎを制限(人返し)。農民を再び、土地にしばりつけた。その上で代官や村役人による農村の支配体制を固めた。
天保の改革
老中の水野忠邦が行った政治改革。2年余りで失敗。
- 倹約令を出して、町人の派手な風俗を取り締まる。政治批判や風紀を乱す小説の出版を禁止。
- 株仲間の解散を命令。江戸に出稼ぎに来ている農民を故郷の村に返す。
- 異国船打払令を止め、寄港した外国船にまきや水を与えるように命じる一方、軍事力を強化。
- 江戸や大阪の周辺を幕領にしようとする。大名や旗本の強い反発。
江戸の工業
貨幣経済が広がり、肥料や農具を買うため、農民も貨幣を用いるようになった。農民の貧富の格差が拡大。
- 手工業の変化…問屋制家内工業から工場制手工業へ
- 問屋制家内工業…問屋から原料をかりうけた農家が行った。はたおりなどの手工業。
- 工場制手工業(マニュファクチュア)…商人や地主から工場をつくり、人をやとって行う。19世紀ごろから登場。
一揆
- 百姓一揆…農民が領主に対しておこした暴動。
- 打ちこわし…米を買い占め値段をつりあげた商人に対して都市の大衆がおこした暴動。
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