中学歴史の「自由民権運動」のまとめ

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中学歴史の「自由民権運動」についてまとめています。国会開設の勅諭が出されると民権派の2政党が結成され、自由民権運動が始まります。その後、自由党員の直接行動などで、自由民権運動はおとろえます。そのあたりについて、詳しく記述しています。それでは、中学歴史の「自由民権運動」のまとめです。

自由民権運動

初めは土族が中心だった自由民権運動は、やがて、豪農 (大地主)や商工業者も参加する運動へと発展していった。1880年,民権派は愛国社を国会期成同盟と改称し、政府に 国会の開設を求める請願書を提出した。政府内でも,要職にあった大隈重信が速やかに国会を開設することを求めた。そうしたなか、1881年7月に開拓使官有物払い下げ事がおこり、民権派は政府攻撃をいっそう強めた。

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国会開設の勅諭

政府は官有物の払い下げを中止して、民権派の大隈重信を政府から追放するとともに、国会開設の勅諭を出して、10年後(1890年)に国会を開くことを約束した。そこで、板垣退助らは1881年、フランスの民権思想の影響を受けた急進的な自肉党を結成し、翌年、大隈重信らもイギリス流の議会 政治と立憲君主制を理想とする立憲政進党を結成した自由民権運動の背景には、西洋での市民革命のなかで生まれた民主主義の考え方があって、植木枝盛などは、国民の自由と権利を守ることを人々によびかけた。また、民権運動の高まりのなかで, 憲法や政治のしくみ を研究する学習会が全国各地で開かれ、民間でも憲法私案 (五日市憲法など)がさかんにつくられた。

西洋の市民革命

市民階級が絶対王政を倒した革命を、市民革命といいます。 絶対王政のもとでは、国王は大商人と結んで産業を統制し、議会を無視して重税をかけ、信仰の自由も認めていませんした。そこで、豊かな農民や工場経営者らは、都市の新興の 商工業者と結んで、議会で力をのばして対抗していきました。市民階級が、身分制にもとづく社会を改め、自由と平等を求めて絶対王政を倒した革命を市民革命とよんでいます。

自由民権運動のおとろえ

西南戦争後に政府が財政を引きしめ、増税策をとったことから世の中は不景気となり、中・下層の農民が没落し、生活に苦しむ人々が増加した。自由党の急進派は貧農と結んで各地で蜂起し、福島事件や秩父事件(埼玉県)などがおこったが、政府は警察や軍隊の力で鎮圧した。この間、地方の党員を統制できなくなった自由党 は解散し、豪農や商工業者らは民権運動の激化に不安を覚え、しだいにはなれていった。立憲改進党も、大隈重信の脱党で弱体化した。その後、政府が約束 した国会開設の時期が近づくと民権運動は再びもり 上がりを見せたが、政府は保安条例などの法令で弾圧したり、政党の有力者を手なずけたりした。

秩父事件

1884年の、松方財政下では困民党に結集した農民たちが、秩父事件を起こした。秩父事件の前後には、加波山事件、飯田事件など、自由党員を主力とする一連の激化事件がおこっている

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