中学歴史の「平氏・平清盛の政治」についてまとめています。保元・平治の乱ののち、平氏が全盛となっていきます。
平氏と地方の反乱
1156年、崇徳上皇と後白河天皇の対立に加え、藤原摂関家の内部で氏長者(氏の統率者)の地位をめぐって兄弟の争いがおこり、武士をまきこんで保元の乱がおこった。
保元の乱
平安京を舞台にして戦われたこの戦乱は、わずか数時間にして、平清盛・源義朝が味方した天皇方が勝ち、2人は、武士の棟梁(かしら)として中央政界に進出していった。しかし、乱後の恩賞は平清盛に厚く、源義朝には不満だった。
平治の乱
1159年には、院の近臣(上皇の側近)の内部争いに平清盛と源義朝の対立がからんで、平治の乱がおこった。この乱にも平清盛が勝って、敗れた義朝の子の頼朝は伊豆国(静岡県)に流された。上皇・藤原氏・源氏の勢いはおとろえ、平氏はやがて、全盛期をむかえることになりました。
平清盛の政治
平清盛は太政大臣になり、政権をにぎった。 1167年、平清盛は武士として初めて太政大臣になり、貴族に代わって政権をにぎった。平清盛は藤原氏と同様に、娘を后にして天皇の外戚(母方の親戚)となり(娘の徳子が高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだ)、平氏一族を朝廷の高位高官や国司につけた。また、60余国のうちの30余か国と500か所余りの荘園を支配し、栄華をほこった。
日宋貿易
遣唐使の停止以後、大陸との交流は公的には絶えたが 10世紀末から宋(中国)の商人が博多(福岡県)などに来航し、私貿易が行われていた。清盛は大輪田泊(現在の神戸港)を修築するなどして瀬戸内海航路の安全をはかり、宋(南宋)と積極的に日宋貿易をすすめて、大きな利益を得た。
- 輸出…硫黄・刀剣・漆器など
- 輸入…宋銭 (銅銭)・絹織物・陶磁器・書籍などの「唐物」
平氏の滅亡
平氏一族は栄華をほこり、朝廷の政治を思うままに動かした。しかし、こうした独裁的な政治に地方の武士は不満をいだき、後白河上皇を はじめ、貴族・寺社も反感を強めた。平清盛は反平氏の動きを弾圧したが、かえって平氏打倒の動きは強まっていった。
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