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中学歴史「織田信長・豊臣秀吉による統一事業のポイントまとめ」

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中学歴史「織田信長・豊臣秀吉による統一事業のポイントまとめ」です。織田信長のあとをついだ豊臣秀吉が全国統一を完成までの流れです。

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織田信長の統一事業

織田信長は、尾張の戦国大名で桶狭間の戦いで今川義元を破ったのち、室町幕府を倒す。16世紀の中ごろ、戦いに勝ち残った有力な戦国大名は、京都にのぼって天皇や将軍の権威をたよりに全国を統一しようとしていた。織田信長の本拠地である尾張(愛知県)は 京都に近く、豊かな濃尾平野があり、京都にのぼるためのめぐまれた条件がそろっていた。

  • 長篠の戦い…鉄砲を活用し、武田勝頼を倒す。
  • 楽市・楽座…安土城下で、商工業の自由な発展目指し、座の特権を廃止した。
  • 本能寺の変…1582年、家臣の明智光秀にそむかれ自害。

桶狭間の戦い

1560年、信長は桶狭間の戦いで駿河(静岡県)の今川義元を破り、1568年に京都にのぼって足利義昭(あしかがよしあき)を室町幕府の第15代将軍につけた。しかし、両者の対立がしだいに深まり、1573年には足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼした。織田信長は、1567年ごろから「天下布武(てんかふぶ)」の印を用いて、武力による天下統一の意思を示していた。

姉川の戦い

信長は1570年に、姉川の戦いで近江(滋賀県)の浅井長政と越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を破り、1571年には、浅井・朝倉氏に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにして仏教勢力を屈服させた。

長篠の戦い

徳川家康と同盟を結んだ信長は、1575年に、三河(愛知県)の長篠の戦いで、足軽鉄砲隊を組織して大量の鉄砲を使い、騎馬隊を中心とする甲斐(山梨県)の武田勝頼の軍勢を打ち破った。

本能寺の変

1576年には安土城に移り全国統一の本拠地としたが、1582年に、家臣の明智光秀にそむかれて京都の本能寺で自害した。

織田信長の政治

織田信長は、基本的な政策として、積極的に商工業を保護し、富国強兵策をおし進めた。

  1. 各地に設けられていた関所は、人や物資・軍隊の移動などをさまたげていたため、廃止して交通の便をはかった。
  2. だれでも自由に商売ができるようにするため、安土城下では、新興の商工業者を集めて市場の税を免除し、営業を独占していた座の特権を廃止した。商工業をさかんにするためのこの政策を楽市令(楽市楽座)という。
  3. 領内 の検地を行って、土地の面積や収穫量を家臣や名主(有力な農民)に自己申告させた。これを指出(さしだし)という。
  4. 統一事業をさまたげる寺院などの古い勢力をおさえ、貿易の利益を得るためにキリスト教を保護した。
  5. 周囲に堀をつくり武力をもって信長に対抗していた堺(大阪府)も屈服させ、自治権をうばって直轄地とした。

強い勢力をもち武装して織田信長とするどく対立していた一向一揆を破り、浄土真宗(一向宗)の拠点の石山(大阪)本願寺を10年にわたる戦いのすえに降伏させた。

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豊臣秀吉の統一事業

明智光秀を倒し、信長の後継者となる。朝廷から関白に任命され、大阪城を拠点にに全国統一を完成した。信長、秀吉が政権をにぎった時期を安土桃山時代という。中国地方で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉は、本能寺の変での織田信長の死を知ると、毛利氏と停戦して、すばやく兵を返した。そして山崎(京都府)の戦いで明智光秀を倒して、信長の後継者としての地位を固め、1583年に敵対する柴田勝家を打ち破った。

  • 兵農分離…武士と農民の身分ははっきり区別すること。近世の社会の仕組みが固まる。
  • 太閤検地…田畑の面積や土地の状態を調べて石高で表し、農民から年貢を確かなものにした。
  • 刀狩…農民から刀や鉄砲などの武器を取り上げた。一揆を防ぎ、耕作に専念させることが目的。
  • 朝鮮侵略…明の征服を目指し、朝鮮に1592年と1597年の2度大軍を送った。苦戦の後、秀吉の病死を機に引き上げる。2度の朝鮮侵略は日本国内の武士や農民の負担をかけ、豊臣氏が没落する原因となった。

全国統一

秀吉は石山本願寺の跡地に大阪城を築いて統一事業の本拠地とした。1585年に四国の長宗我部氏を征服し、1587年には九州の島津氏を攻めて屈服させ、全国統一を進めていった。さらに、1590年には小田原(神奈川県)の北条氏を滅ぼし、東北地方の伊達氏なども服属させて全国統一を完成した。

太閤検地

土地と農民を支配し年貢を確実に取り立てる目的で、1582年ころから役人を派遣して全国的に検地を開始した(太閤検地)。統一したものさしやますで田畑の面積や等級を調べて土地の生産力を石高(米のとれ高)で表し、田畑の耕作者をすべて検地帳に登録した。これによって、農 民は耕作権を認められた代わりに、年貢を納める義落を負わされた。また、この検地によって荘園制は完全になくなり、全国の土地は武士の支配下におかれることになった。

刀狩令

武士は、石高で知行(領地)をあたえられた。 1588年、秀吉は農民らの反抗を防ぎ、田畑の耕作に専念させるために刀狩令を出して、武士以外の者から刀・言. やり・鉄砲などの武器を取りあげた。

検地と刀狩によって、武士と農民の身分がはっきり区別されるようになり(兵農分離)、次の江戸時代へと続く身分 制度の基礎が固まった。

バテレン(宣教師)追放令

豊臣秀吉は、初めはキリスト教の布教を許していたが、 長崎の地が教会領になっていることや、ポルトガル人が日本人を買い。奴隷として海外に連れ去っていることを知ると、キリスト教が国内統一のさまたげとなると考え、1587年に バテレン(宣教師)追放令を出し、宣教師を国外に追放した。しかし、秀吉は外国船の来航は歓迎し、南蛮貿易を奨励した。それもあって、布教の禁止は徹底しなかった。

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朝鮮侵略

豊臣秀吉は、明(中国)の衰退を見てとり、日本を中心とする新しい東アジアの秩序をつくろうとして、ゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、台湾などに服属を求めるとともに、明の征服をくわだてた。

文禄の役

豊臣秀吉は、朝鮮に対して明征服のための道案内などを求めたが拒否されたため、1592年、名護屋(佐賀県)を拠点として5万人余りの大軍で朝鮮に出兵し、首都漢 (現在のソウル)を占領し、朝鮮北部まで進んだ(文禄の役)。しかし、民衆による義兵の抵抗や明の救援、李舜臣(イスンシン)が率いる水軍の活躍などで、戦局は日本にとって不利となり、いったん休戦となった。

慶長の役

日本側は、明との講和の交渉を進めたがうまく行かず、1597年、秀吉は再び約14万人の兵を朝鮮に送った(慶長の役)。この戦いでは、日本軍は最初から苦戦を強いられたが、翌年、豊臣秀吉が病死したため、その遺命によって、朝鮮から兵を引きあげた。

豊臣秀吉の侵略によって、朝鮮の国土は荒れはて、明の国力さらにおとろえた。国内的には、ぼう大な戦費をむだに使ったことにより、豊臣政権の没落を早めることになった。このころ、朝鮮侵略の際に諸大名が日本に連れてきた参平ら朝鮮の陶工が、新しい製陶の技術を九州・中国地方の各地に伝えていった。その結果、有田焼・唐津焼(ともに佐賀県)、萩焼(山口県)・薩摩焼(鹿児島県)などすぐれた陶磁器がつくられるようになった。

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桃山文化

桃山文化の豪華さは、大名や商人の富と権力の象徴。

  • 城…安土城(織田信長)、大阪城(豊臣秀吉)など。
  • 天守閣…高さが大名の権威を表した。
  • 襖絵・屏風絵…狩野永徳、狩野山楽らの華やかな絵画。
  • 茶の湯…千利休がわび茶の作法を完成させる。
  • 芸能…出雲の阿国がかぶき踊りを始める。
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  1. […] 中学歴史の戦国・安土桃山時代(織田信長・豊臣秀吉)のまとめ […]

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