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中学歴史「江戸時代の鎖国政策と開国後のポイントまとめ」

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江戸時代の鎖国下の対外関係

1641年、幕府は平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移し、ここだけで貿易を許可しました。オランダは、ただ1つ残ったヨーロッパの国で、キリスト教の布教を交易の条件としない新教国だったので、貿易を許されました。しかし、出島から自由に出ることはできず、長崎奉行のきびしい監視のもとにおかれてました。

オランダ風説書

オランダ商館長は、オランダ船がもたらす海外の情報をオランダ風説書として、幕府に毎年提出させられ、これによって幕府は、海外の情報を知ることができました。

鎖国下での中国(明・清)との関係

中国(明・清)とは正式な国交はありませんでたが、民間の商船が九州各地に多数来航しました。やがて幕府は、中国人の居住を長崎の唐人屋敷に限定して貿易を認めて、他の場所での交易を禁止するようになりました。 中国からも、海外の情報が提供された唐船風説書があります。

●輸出・輸入品

  • 輸出…金・銀・銅・海産物・陶磁器など
  • 輸入…生糸・絹織物・砂糖・医薬品など

その他の対外関係

この長崎での貿易のほかに、朝鮮・琉球・蝦夷地とも交流がありました。

●朝鮮
朝鮮とは、豊臣秀吉の侵略以来国交がとだえていましたが、江戸時代初めの1609年に、対馬藩主の宗氏を通じての交渉で国交が回復した。対馬藩は、釜山におかれた倭館で貿易を再開しました。この対朝鮮貿易では、対馬藩に独占的な特権があたえられました。朝鮮からは、幕府の将軍が代わるごとに、400~500人の使節が祝賀の目的で江戸に送られた(通信使)。通信使の往復の際には、各地でさまざまな行事がもよおされ、使節 の話を聞こうとする学者や文人が宿舎を訪れたりしました。

●琉球王国
琉球王国は、1609年に薩摩藩に征服され、きびしい監督下におかれました。薩摩藩は独立した王国と見せかけ、中国(明・ 清)との貿易を続けさせた。琉球王国は、幕府の将軍や琉球国王が代わるごとに使節(慶賀使・謝恩使)を送ってきました。

●蝦夷地
蝦夷地(現在の北海道)では、アイヌの人々が狩りや漁を行い、樺太(サハリン)や千島列島、中国東北部と交易していました。幕府から蝦夷地の支配を認められていた松前藩は、ア スの人々との取り引きを独占し、少しの米などで大量の 博産物を得て大きな利益を得ていた。そのため、アイヌの人々は、1669年、シャクシャインを指導者として決起しました。しかしながら、2か月の戦いののちに敗れ、以後、さらにさびしい支配を受けることとなりました。

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ペリーの来航

1853年浦賀に来航し開国を要求。アメリカの使節で東インド艦隊司令長官のペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀(神奈川県) に来航した。これらの軍艦は船体が黒かったので、当時の人々は「黒船」とよんだ。アメリカ合衆国はそのころ、日本を、北太平洋での捕鯨の寄港地や中国貿易を行うための中継地にしたいと考えていた。そこでペリーは大統領の国書を江戸幕府にわたして、開国を強く要求した。幕府は翌年に返事をすると約束し、先例を破って朝廷に報告するとともに、諸大名や旗本らの意見を聞いた。このことは、幕府の権威を弱める結果となり、朝廷や大名の政治への発言力を強めることとなった。

  • 日米和親条約…1854年に結ぶ。下田・函館を開港。
  • 日米修好通商条約…1858年に結ぶ。領事裁判権を認め、関税自主権がないなど日本に不平等な条約。
  • 貿易の開始…オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結ぶ貿易を開始。最大の貿易港は横浜。貿易の相手国はイギリスが中心。
  • 開国の影響…物資の不足や金貨が大量に国外流出ことなどから物価が上昇した。自由な貿易の開始は日本の経済に大きな影響を与えた。

開国後の経済

貿易が始まると、日本は生糸・茶・海産物などを輸出し、毛織物・綿織物(綿糸をふくむ)や武器などを輸入した。しかし、安価な綿製品が大量に輸入されたため、国内の生産地は大打撃を受けた。また、絹織物業者の中には生示が海外に輸出されてしまうため、原料が不足して倒産する者も多く出た。さらに、米や生糸は商人に買いしめられて、品不足になった。そのうえ、幕府が金の海外流出を防ぐために質の悪い貨幣(小判)をつくったことで、物価が急上昇して国内の経済は混乱し、下級武士や庶民 (一般の人々)の生活が苦しくなった。このため、百姓一揆や打ちこわしが続発するようになった。

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