中学歴史の「豊臣秀吉の政治と朝鮮侵略」

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中学歴史の「豊臣秀吉の政治と朝鮮侵略」についてまとめています。1590年、秀吉は北条氏を滅ぼして全国を統一した。また、全国統一後は、豊臣秀吉は、検地・刀狩を行って兵農分離をおし進めす。そのあたりについて、詳しく記述しています。それでは、中学歴史の「豊臣秀吉の政治と朝鮮侵略」です。

豊臣秀吉の政治

中国地方で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉は, 158 年、本能寺の変での織田信長の死を知ると、毛利氏と停戦して、すばやく兵を返した。そして山崎(京都府)の戦いで明智光秀を倒して、信長の後継者としての地位を固め、1583年に敵対する柴田勝家を打ち破った。

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全国統一

秀吉は石山本願寺の跡地に大阪城を築いて統一事業の本拠地とした。1585年に四国の長宗我部氏を征服し、1587年には九州の島津氏を攻めて屈服させ、全国統一を進めていった。さらに、1590年には小田原(神奈川県)の北条氏を滅ぼし、東北地方の伊達氏なども服属させて全国統一を完成した。

豊臣秀吉の政策

豊臣秀吉は、もともと尾張(愛知県)の農民の出身だったが、関白や太政大臣という最高の官職に任じられ、朝廷の権威を利用して封建支配を確立させていった。

太閤検地

土地と農民を支配し年貢を確実に取り立てる目的で、1582年ころから役人を派遣して全国的に検地を開始した(太閤検地)。統一したものさしやますで田畑の面積や等級を調べて土地の生産力を石高(米のとれ高)で表し、田畑の耕作者をすべて検地帳に登録した。これによって、農 民は耕作権を認められた代わりに、年貢を納める義落を負 わされた。また、この検地によって荘園制は完全になくなり、全国の土地は武士の支配下におかれることになった。

刀狩令

武士は、石高で知行(領地)をあたえられた。 1588年、秀吉は農民らの反抗を防ぎ、田畑の耕作に専念させるために刀狩令を出して、武士以外の者から刀・言. やり・鉄砲などの武器を取りあげた。

検地と刀狩によって、武士と農民の身分がはっきり区別されるようになり(兵農分離)、次の江戸時代へと続く身分 制度の基礎が固まった

バテレン(宣教師)追放令

豊臣秀吉は、初めはキリスト教の布教を許していたが、 長崎の地が教会領になっていることや、ポルトガル人が日本人を買い。奴隷として海外に連れ去っていることを知ると、キリスト教が国内統一のさまたげとなると考え、1587年に バテレン(宣教師)追放令を出し、宣教師を国外に追放した。しかし、秀吉は外国船の来航は歓迎し、南蛮貿易を奨励した。それもあって、布教の禁止は徹底しなかった。

朝鮮侵略

豊臣秀吉は、明(中国)の衰退を見てとり、日本を中心とする新しい東アジアの秩序をつくろうとして、ゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、台湾などに服属を求めるとともに、明の征服をくわだてた。

文禄の役

豊臣秀吉は、朝鮮に対して明征服のための道案内などを求めたが拒否されたため、1592年、名護屋(佐賀県)を拠点として5万人余りの大軍で朝鮮に出兵し、首都漢 (現在のソウル)を占領し、朝鮮北部まで進んだ(文禄の役)。しかし、民衆による義兵の抵抗や明の救援、李舜臣(イスンシン)が率いる水軍の活躍などで、戦局は日本にとって不利となり、いったん休戦となった。

慶長の役

日本側は、明との講和の交渉を進めたがうまく行かず、1597年、秀吉は再び約14万人の兵を朝鮮に送った(慶長の役)。この戦いでは、日本軍は最初から苦戦を強いられたが、翌年、豊臣秀吉が病死したため、その遺命によって、朝鮮から兵を引きあげた。

豊臣秀吉の侵略によって、朝鮮の国土は荒れはて、明の国力さらにおとろえた。国内的には、ぼう大な戦費をむだに使ったことにより、豊臣政権の没落を早めることになった。 このころ、朝鮮侵略の際に諸大名が日本に連れてきた参平ら朝鮮の陶工が、新しい製陶の技術を九州・中国地方の各地に伝えていった。その結果、有田焼・唐津焼(ともに佐賀県)、萩焼(山口県)・薩摩焼(鹿児島県)などすぐれた陶磁器がつくられるようになった。

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