中学歴史「飛鳥時代のまとめ」です。
飛鳥時代のポイント
500年代後半の中国朝鮮日本国内の動きについては、
- 中国…6世紀末に隋が南北朝統一。
- 朝鮮半島…6世紀に百済や新羅や勢力を強める。
- 国内…蘇我氏・物部氏などが皇族の争いは続いた。
聖徳太子の政治内容
聖徳太子は、推古天皇の摂政となり、蘇我馬子と協力し、中国や朝鮮に学んで、大王中心の政治制度を整えようとする。摂政とは、天皇が女性や幼少の時に代理として政治を行うことです。
- 冠位十二階の制度…家柄にとらわれず才能や功績のある人物を役人に取り立てる。
- 一七条の憲法…仏教や儒学の教えを取り入れ、役人の心構えを示す。
- 遣隋使…小野妹子などを隋に送る。隋の進んだ制度や文化を取り入れるために送られた。
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。(略)
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。(略)
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。(略)
飛鳥文化
飛鳥文化は、奈良盆地南部の飛鳥地方を中心に栄えた。
- 仏教の伝来…6世紀半ばに仏教や経典が百済から朝廷に送られる。
- 日本最初の仏教文化…インドや西アジアのなどの文化の影響を受ける。法隆寺の釈迦三尊像など。
大化の改新
中国の動きでは、7世紀初め唐が中国を統一。律令(律は刑罰の決まり、令は政治の決まり)などの法律を整える。戸籍に登録した人々に土地を分け与え、税や兵役を負担させる。
日本では、聖徳太子(厩戸皇子)の死後に蘇義氏が勢力を強め、643年、山背大兄王(太子の子)とその一族を滅ぼして、大和政権での権力を独占していた。しかし、蘇我氏の独裁的な政治に不満が高まり、中国から帰国した留学生らは、唐のような強力な中央集権国家をつくる必要性を強く感じていた。
中大兄皇子と中臣鎌足(のち藤原鎌足)らは 留学生らの意見をとり入れて政治改革をくわだて、645年、蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼした(乙巳の変という)。その翌日、中大兄皇子は皇太子となって、中臣鎌足を内臣に任命し、新たに即位した孝徳天皇のもとで国政の改革にのりだした。そして、唐の制度にならって年号を「大化」とした。これは日本最初の年号で、新しい支配の仕組みを作る改革を大化の改新という。
- 中大兄皇子…645年中臣鎌足などともに、蘇我蝦夷・入鹿の親子を倒す。
- 公地・公民…豪族が支配していた土地と人々を、国家が直接支配する。朝廷や地方の組織が改められ、権力の集中を目指した。
大化改新の方針
改新政治では、公地公民など4つの方針が示された。646年に改新の詔を出して、天皇を中心とする中央集権国家をつくりあげる方針が示されたとされるが、実現されるまで50年余りかかった。
- 公地公民…皇室(天皇家)や豪族私有ていた土地や人々を国が直接支配する。
- 国郡制度…都の周辺を「畿内」とし、全国を国・郡に分けて国司・郡司をおいて統治。
- 班田収授法…戸籍をつくって人々に公地 (口分田)を貸しあたえ、死ぬと国に返させる。
- 組・調・庸の税制…口分田をあたえられた人々は、種・調・肩などの税を納める。
班田収授法
戸籍に登録された6歳以上のすべての人々に、性別や良賤の身分に応じて区分を与え、死ぬと国に返させる。
税 | 租 | 収穫量の約3%の稲 |
---|---|---|
調 | 成年男子にかかる地方の特産物など | |
庸 | 成年男子にかかる布(労役の代わり) | |
兵役・労役 | 雑徭 | 成年男子にかかる。国司のもとでの1年60日以内の労働 |
兵士 | 1年に36日間兵士としての訓練 | |
衛士 | 兵士から選ばれ1年間の警備 | |
防人 | 兵士から選ばれ3年間九州の警備 |
律令国家への歩み
- 朝鮮半島…新羅が百済を滅ぼす。日本は、百済を助けるため、出兵するが、新羅・唐の連合軍に敗北(白村江の戦い)
- 天智天皇…中大兄皇子が即位し、天智天皇になる。大津宮(滋賀県)に都を移し、政治の改革を進める。
- 天武天皇…壬申の乱(天智天皇の跡継ぎをめぐる戦い)に勝って即位。飛鳥に都を戻す。
- 持統天皇…天武天皇の皇后。日本初めての本格的な都である藤原京を造る。
このころの朝鮮半島
676年に、新羅が朝鮮半島を統一した。7世紀半ば、朝鮮半島では新羅が唐と結んで、660 年に百済を、668年には高句麗を滅ぼした。日本は百済救援のために出兵したが、663年に白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に敗れ、半島から手を引いた。高句麗の滅亡後、7世紀の末に、朝鮮半島北部から中国東北部にかけての地域に海がおこった。新羅は唐の勢力を退け、676年に朝鮮半島を統一し、律令制度を整え、儒教や仏教文化が栄えた。
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