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中学歴史「江戸時代のまとめ」

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中学歴史「江戸時代のまとめ」です。江戸時代は、1603年から1868年までの期間で、将軍や武士たちが活躍する中で、町は賑やかな文化が花開いた時代です。

▼江戸時代を極めよう!
中学歴史「江戸時代の一問一答」
中学歴史「江戸時代の対策問題」
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【流れ】江戸時代のポイント

年号 出来事
1641年 鎖国完成(長崎出島での貿易可)
1853年 ペリーが浦賀に来航(開国要求)
1854年 日米和親条約を締結
1858年 日米修好通商条約を締結
1866年 薩長同盟(坂本龍馬が仲介。倒幕を目指す)
1867年 大政奉還→王政復古の大号令
1868年 戊辰戦争(武士政治の終わり)

江戸幕府の成立

三河(愛知県)の小さな大名だった徳川家康は、織田信長と同盟を結び、豊臣秀吉が実権をにぎると、家臣となった。秀吉が北条氏を滅ぼすと関東の地をあたえられ(1590年)、江戸を本拠地として、実力をたくわえていった。

豊臣秀吉の死後、豊臣政権の力が弱まり、徳川家康の勢力がのびてくると、豊臣氏をもり立てようとする石田三成らが家康を倒そうとして、1600年に兵をあげた(関ヶ原の戦い)。徳川家康を中心とする東軍と三成らの西軍に分かれて、18万余りの軍勢が激突したが、この関ヶ原の戦いに勝った家康は、豊臣秀頼(秀吉の子)を一大名の地位に落として、天下の実権をにぎった。

江戸幕府のしくみ

江戸幕府のしくみ図
1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた。以後の約260年間を江戸時代という。幕府を開いたとはいえ、大阪城には豊臣秀頼がいて、父の豊臣秀吉の後継者とみる大名もいた。

そこで徳川家康は、徳川家が代々将軍職をつとめる家がらであることを示すために子の徳川秀忠を2代将軍としたが、自らは政治の実権は手放さなかった。さらに政権を安泰にする。1614・1615年の2度にわたって大阪城を攻めて、豊臣氏を滅ぼしこれを、大阪冬の陣・夏の陣という。

禁中並公家諸法度

幕府は朝廷や公家が政治に関与するようになると、自ら権力をふるったり、他の大名に利用されたりするおそれがあり、幕府の支配がおびやかされると考えたため、禁中並公家諸法度を出して、天皇や公家の行動を制限し、朝廷が政治に関与することを禁じたうえ、京都所司代に朝廷の動きをきびしく監視させた。さらに、寺社に対しても法度を定め、寺社奉行を通じて統制した。

江戸の身分

江戸時代は、身分の区分がさらに細かく定められた。

  • 武士…名字・帯刀を許された支配身分。武士道を守る。
  • 町人…武士とともに城下町に住まわれた。
  • 百姓…人口の約85%。本百姓と水のみ百姓。5人組の制度で年貢の納入などの連帯責任は負わされた。

兵農分離によって定めた身分制度がより強いものとなった。

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【政治】江戸時代の政治

江戸時代初期の政治

徳川家康は、豊臣氏の戦力を抑え、江戸に幕府を開く。

  • 関ヶ原の戦い…1600年石田三成らを倒す。
  • 江戸幕府…1603年徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府開く。江戸時代が始まる
  • 大阪の陣…1614年・15年豊臣氏を滅ぼして、権力を確立。
  • 幕藩体制…幕府と藩が全国の土地と人民を支配。
  • 幕僚…幕府が直接支配した土地。
  • 藩…大名の領地とその支配の仕組み。
  • 武家諸法度…大名を統制。無断の城改築などを禁止。
  • 参勤交代…大名が1年おきに領地と江戸を往復。五街道の整備につながる。3代将軍徳川家光が制定。
  • 禁中並公家諸法度…天皇公家の行動規制。

江戸初期は、大名や朝廷の力をおさえ、幕府権力の基礎が固められた。

朱印船貿易
キリスト教の拡大された幕府は、禁教と鎖国を行った。

  • 朱印船貿易…徳川家康が朱印状を出し、東南アジア貿易をが盛んになった。各地に日本町ができる。
  • 禁教令…キリスト教信仰を禁止。
  • 島原・天草一揆…キリスト教徒の一揆。
  • 鎖国…ポルトガル人を追放。オランダ商館を長崎の出島に移す。中国船・オランダ船以外との貿易を禁止。鎖国下の対外関係では、オランダ、中国以外とも交流。
  • 朝鮮と国交回復…朝鮮通信使の来日。対馬藩が窓口。
  • 琉球王国…沖縄県にあり、薩摩藩が支配。中国にも朝貢。
  • 蝦夷地…松前藩がアイヌの人々との交易を独占。

鎖国でも朝鮮、琉球、蝦夷地などとの交流が行われた。

武家諸法度
幕府は、大名の勢力を弱めて反抗を防ぐため、1615年に2代将軍徳川秀忠の名前で初めて武家諸法度を定め、幕府の許可のない城の修理、大名家どうしの結婚などを禁じた。以後、この法度は、将軍が代わるたびに出された。

  • 文武弓馬の道(学問と武芸)にはげむこと。
  • 大名は領地と江戸に交代 で住み、毎年4月中に参勤せよ。
  • 新しく城を築いてはならない。
  • 石垣などの修理は奉行所にとどけ出ること。
  • 大名は幕府の許可なく、かってに結婚してはならない。
  • 米500石を積むことができ る船を建造してはならない。

など

3代将軍徳川家光のときの武家諸法度(1635年)では、新たに参勤交代が制度化され、大船建造の禁止が追加された。

参勤交代
参勤交代は、大名が1年おきに江戸と国元(藩)を往復するもので、妻子は実質的に人質として江戸におかれた。この江戸と国元の二重生活の負担で、大名は経済的に苦しんだ。武家諸法度に違反した大名は、改易(領地を没収し、藩を取りつぶす)・国替など、きびしく罰せられた。

文治政治

5代将軍徳川綱吉は、湯島(現在の東京都文京区)に孔子をまつる聖堂を移して、朱子学(儒学の一派)を幕府公認として、学問や道理にもとづく文治政治を行いました。

  • 朱子学を官学として、湯島に聖堂を建立。
  • 生類憐みの令…病気の生類を捨てることを禁じ、食料のために魚、鳥、亀、貝を売ることを禁止。
  • 貨幣改鋳…低品位で大量発行。しかし、低品位貨幣では同額面では売りたくないため物価が上昇。

綱吉

文治政治の背景
それまで、江戸時代初期には、武力でおさめる武断政治が行われていました。多くの大名が取りつぶされて牢人が増加していました。これらの牢人の中には、幕府を倒そうとする者が現れ、社会不安が引き起こされました。その例が、由井正雪の乱です。そこで、幕府は、武断政治を改めるに至りました。

また、綱吉は生類憐みの令を次々と出して、とくに犬を保護したことから「犬公方」とよばれて、人々の反感をかいました。生類憐みの令とは、極端な動物愛護令でした。動物を殺すことや食べるために飼うことを禁止しました。

文治政治のころの風潮
1657年に明暦の大火の被害に加えて、寺院建築に多額の費用を使ったことなどで財政がひっ迫していました。そのうえ、これらに、金銀の産出量が減ったことが財政難に拍車をかけました。そこで、幕府が貨幣の質を落として、発光量を増やしたため、かえって物価が上昇し、人々を苦しめることになりました。

正徳の治

朱子学者の新井白石は、綱吉の死後、6代家宣・7代家継の2代の将軍に仕え、文治政治をおし進めた(正徳の治)人です。新井白石はまず、綱吉の遺言に反して、人々を苦しめていた生類憐みの令を廃止して、幕府の儀式・制度や服装を整えて、将軍の権威を高めようとしました。儒学者の新井白石の政治で、典型的な文治政治です。

  • 朝鮮通信使の待遇簡素化
  • 閑院宮家の創設
  • 高品位貨幣の発行…物価の安定
  • 1715年正徳新令…長崎貿易での金銀流出防止

などを行う。
白石

正徳小判
朝鮮通信使の接待を簡素にするなど、外国に対しても将軍の権威を示そうとしました。また、幕府財政の安定をはかるために、低下した貨幣の質を上げて(正徳小判)、物価の上昇をおさえようとしました。長崎貿易では1715年に、金銀の国外流出を防止するため、年間の貿易額を中国船30隻・銀6000貫、オランダ船2隻・ 銀3000貫に制限しました(正徳新令)。

享保の改革

徳川吉宗は、1716年、紀伊藩主から8代将軍となり享保の改革をすすめる。質素・倹約をかかげて実施。

  • 上米の制…参勤交代で大名が江戸にいる期間を短くするかわりに、幕府に米をおさめさせた。
  • 公事方御定書…公平な裁判の基準となる法律。
  • 目安箱…民衆の意見を取り入れるために置かれた。

徳川吉宗は、武士に質素・倹約をすすめるとともに、能力のある人材を役人に登用し、「足高の制」を定めて、在任中は役職につりあった禄高(給料)をあたえました。また、裁判の公正をはかるために公事方御定書を定め、庶民の意見を聞くために目安箱を設置しました。享保の改革により、幕府の財政は一時的に持ち直した。

享保の改革のころの様子
農村では、問屋制家内工業が確立。問屋制家内工業とは、農民が作物を自分で加工して売る家内工業が発達し、問屋も農民から製品を安く買い取ることができるようなりました。

19世紀頃には、工場制手工業(マニュファクチャー)が出来始める。商人や地主が工場をつくり、人を雇って製品をつくる者も現れ近代工業の礎に。

田沼の政治

老中の田沼意次による財政の立て直し。

  • 株仲間の奨励…特権を与え、営業税を徴収した。
  • 開発計画…蝦夷地の調査、印旛沼の開拓など。
  • 天明のききん…百姓一揆や打ちこわしが多発し、田沼は老中をやめさせられた。

田沼意次は、商人の豊かな経済力を利用した積極的な協策を行った。商工業者が株仲間(同業者組織)を結成することをすすめ、これに営業を独占させる特権をあたえる代わりに、運上金や冥加金などの営業税を納めさせ、幕府の収入を増やそうとした。

田沼意次

長崎貿易
長崎貿易では、オランダや中国への銅や俵物(アワビ・ナマコなどの干した海産物)の輸出を奨励して、金・銀の国外流出を防ごうとした。また、金・銀の輸入をはかり、貿易の拡大に努めた。さらに、印旛沼や手賀沼(千葉県)の干拓を進め。蝦夷地(現在の北海道)の開拓も計画した。しかし、田沼は商人との結びつきを批判され、天明のききん(1782~87年)が発生し、百姓一揆・打ちこわしが多発するなかで1786年、将軍家治の死とともに失脚した。

渋染一揆
1855年に岡山藩では、「えた」身分の人々に対して「衣類は柄のない藍染(青色)・渋染(茶色) のものに限る」 などの決まりをつくった。1856年、この差別政策に人々は団結して立ち上がり、これを行わせなかった。

寛政の改革

老中の松平定信の倹約政策。

  • ききんへの備え…各地に倉を設けて、コメをたくわえさせる。都市に出てきた農民を故郷に帰すなどした。
  • 朱子学以外の学問の講義を禁止
  • 藩札…財政難に苦しむ諸藩が発行した藩独自の紙幣。

松平定信
松平定信は封建支配を強化するために、文武(学問と武芸)をすすめ、幕府の昌平坂学問所では朱子学以外の講義を禁止し (寛政異学の禁)、役人の登用試験も朱子学に限りました。生活に苦しむ旗本・御家人に対しては、質素・倹約を命じる寛政の改革は、厳しい政策が多く、人々の反感をまねいた。

寛政の改革のころの様子
農民たちは貧しさに耐えきれなくなり江戸や大坂などの都市に出稼ぎ、しかし、農村の人口が大きく減ることになり、土地は荒廃し、年貢の収入も減ることとになり、江戸幕府は困惑。

松平定信は、江戸や大坂などの都市で生活している農村出身者を農村にかえし、出稼ぎを制限(人返し)。農民を再び、土地にしばりつけた。その上で代官や村役人による農村の支配体制を固めた。

天保の改革

老中の水野忠邦が行った政治改革。2年余りで失敗。

  • 倹約令を出して、町人の派手な風俗を取り締まる。政治批判や風紀を乱す小説の出版を禁止。
  • 株仲間の解散を命令。江戸に出稼ぎに来ている農民を故郷の村に返す。
  • 異国船打払令を止め、寄港した外国船にまきや水を与えるように命じる一方、軍事力を強化。
  • 江戸や大阪の周辺を幕領にしようとする。大名や旗本の強い反発。

水野忠邦

鎖国下の政策

1641年、幕府は平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移し、ここだけで貿易を許可しました。オランダは、ただ1つ残ったヨーロッパの国で、キリスト教の布教を交易の条件としない新教国だったので、貿易を許されました。しかし、出島から自由に出ることはできず、長崎奉行のきびしい監視のもとにおかれてました。

オランダ風説書
オランダ商館長は、オランダ船がもたらす海外の情報をオランダ風説書として、幕府に毎年提出させられ、これによって幕府は、海外の情報を知ることができました。

鎖国下での中国(明・清)との関係
中国(明・清)とは正式な国交はありませんでたが、民間の商船が九州各地に多数来航しました。やがて幕府は、中国人の居住を長崎の唐人屋敷に限定して貿易を認めて、他の場所での交易を禁止するようになりました。 中国からも、海外の情報が提供された唐船風説書があります。

●輸出・輸入品

  • 輸出…金・銀・銅・海産物・陶磁器など
  • 輸入…生糸・絹織物・砂糖・医薬品など

その他の対外関係
この長崎での貿易のほかに、朝鮮・琉球・蝦夷地とも交流がありました。

●朝鮮
朝鮮とは、豊臣秀吉の侵略以来国交がとだえていましたが、江戸時代初めの1609年に、対馬藩主の宗氏を通じての交渉で国交が回復した。対馬藩は、釜山におかれた倭館で貿易を再開しました。

この対朝鮮貿易では、対馬藩に独占的な特権があたえられました。朝鮮からは、幕府の将軍が代わるごとに、400~500人の使節が祝賀の目的で江戸に送られた(通信使)。通信使の往復の際には、各地でさまざまな行事がもよおされ、使節の話を聞こうとする学者や文人が宿舎を訪れたりしました。

●琉球王国
琉球王国は、1609年に薩摩藩に征服され、きびしい監督下におかれました。薩摩藩は独立した王国と見せかけ、中国(明・ 清)との貿易を続けさせた。琉球王国は、幕府の将軍や琉球国王が代わるごとに使節(慶賀使・謝恩使)を送ってきました。

●蝦夷地
蝦夷地(現在の北海道)では、アイヌの人々が狩りや漁を行い、樺太(サハリン)や千島列島、中国東北部と交易していました。幕府から蝦夷地の支配を認められていた松前藩は、アイヌの人々との取り引きを独占し、少しの米などで大量の 博産物を得て大きな利益を得ていた。

そのため、アイヌの人々は、1669年、シャクシャインを指導者として決起しました。しかしながら、2か月の戦いののちに敗れ、以後、さらにさびしい支配を受けることとなりました。

開国の要求

ペリーが、1853年浦賀に来航し開国を要求。アメリカの使節で東インド艦隊司令長官のペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀(神奈川県) に来航した。これらの軍艦は船体が黒かったので、当時の人々は「黒船」とよんだ。

アメリカ合衆国はそのころ、日本を、北太平洋での捕鯨の寄港地や中国貿易を行うための中継地にしたいと考えていた。そこでペリーは大統領の国書を江戸幕府にわたして、開国を強く要求した。

幕府は翌年に返事をすると約束し、先例を破って朝廷に報告するとともに、諸大名や旗本らの意見を聞いた。このことは、幕府の権威を弱める結果となり、朝廷や大名の政治への発言力を強めることとなった。

  • 日米和親条約…1854年に結ぶ。下田・函館を開港。
  • 日米修好通商条約…1858年に結ぶ。領事裁判権を認め、関税自主権がないなど日本に不平等な条約。
  • 貿易の開始…オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結ぶ貿易を開始。最大の貿易港は横浜。貿易の相手国はイギリスが中心。
  • 開国の影響…物資の不足や金貨が大量に国外流出ことなどから物価が上昇した。自由な貿易の開始は日本の経済に大きな影響を与えた。

開国後の経済

貿易が始まると、日本は生糸・茶・海産物などを輸出し、毛織物・綿織物(綿糸をふくむ)や武器などを輸入した。しかし、安価な綿製品が大量に輸入されたため、国内の生産地は大打撃を受けた。

また、絹織物業者の中には生示が海外に輸出されてしまうため、原料が不足して倒産する者も多く出た。さらに、米や生糸は商人に買いしめられて、品不足になった。

そのうえ、幕府が金の海外流出を防ぐために質の悪い貨幣(小判)をつくったことで、物価が急上昇して国内の経済は混乱し、下級武士や庶民の生活が苦しくなった。このため、百姓一揆打ちこわしが続発するようになった。

尊王攘夷運動

天皇を尊ぶ尊王論と外国の勢力を排除しようとする攘夷論が結びついた。幕府に対する反対運動。

  • 安政の大獄…大老井伊直弼が幕府に反対した人々を処罰。
  • 桜田門外の変…反対派の武士が井伊直弼を暗殺した事件。
  • 薩摩藩…1862年イギリス人を殺害する事件を起こす。翌年、イギリス艦隊の報復攻撃を受ける。
  • 長州藩…1863年下関(関門)海峡を通る外国船を砲撃。翌年、4国の連合艦隊の報復攻撃を受ける。

倒幕への動き

  • 薩長同盟…1866年、薩摩藩と長州藩が土佐藩の出身の坂本龍馬の仲立ちで同盟を結び、倒幕を目指す。
  • 民主の動き…世直し一揆や打ちこわしが多発。1867年には「ええじゃないか」と踊るさわきが流行。
    攘夷に失敗した薩摩藩・長州藩が倒幕運動の中心となった。

大政奉還

江戸幕府が倒れ天皇中心の新政府が成立した

  • 大政奉還…1867年、15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返した。
  • 王政復古の大号令…1867年、朝廷が天皇中心とする政治に戻すことを宣言した。
  • 戊辰戦争…1868年、旧幕府軍が新政府軍との戦いを始める。翌年、旧幕府が降伏。700年近く続いた武士の政治が終わった。
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【産業】江戸時代の産業

幕府や藩は田畑からの年貢をおもな経済的基礎としていたので、農業の奨励と耕地の拡大 (新田開発)に力をいれた。とくに8代将軍吉宗のころは積極的で、新田開発も大きく進んだ。

農業技術の発展

農村では、商品作物(綿・麻・藍・紅花・業種など)の栽培や養蚕とともに、耕作の合い間に副業として、織物や紙などをつくる農村家内工業が行われていた。18世紀になると、豊かな問屋商人や大地主は資金・原料・道具を農民に貸しあたえて、製品を買い取るようになり(問屋制家内工業)、大きな利益を上げるようになった。農業の発展のため、各方面で農業技術が改良された。

  • 農具…深く耕せるため開墾に適した備中ぐわが広まり、脱穀具も、それまでの2本の竹や木を用いたこき著にかわり鉄製の千歯こきが発明された。 もみをふるい分ける千石どおしや唐箕も考案された。
  • 肥料…人糞、尿や家畜の糞尿に加えて、乾燥した鰯(干鰯)や油かすなどお金で買う肥料(金肥)が用いられるようになり、生産量が増えた。
  • その他…用水のくみあげに踏車や竜骨車が使用されるようになり、耕作に牛馬の使用も広がった。

商品作物の増加

農家の副業としてつくられた。

  • 西木三草と特産物…四木三草の栽培が広まった。また、海外から伝えられたさつまいも・じゃがいも・ かぼちゃ・とうもろこし・すいかなども栽培されて特産物もでき、商品として売買されるようになった。
  • 養蚕…養蚕もすすんで生糸は国内生産でまにあうようになった。また、木綿生産の拡大によって, 民衆の衣料は麻から木綿に代わった。

江戸時代の林業

山林は土木・建築などの用材であり、治水のためにも重要なので,幕府や藩は整備に力をそそいだ。いっぽう、江戸や諸藩の城下町の発展によって建築用材の需要が多くなり、江戸深川の木場のように材木問屋が集まる所もできた。

江戸時代の牧畜

軍事・交通上の必要から馬の牧畜が進み、東北の南部馬が有名。中国地方では牛の牧畜が進んだ。

江戸時代の漁業

地曳網による大規模な漁法が発達して漁場も広がり、遠洋漁業も行われた。魚は食料だけでなく、肥料(干鰯)や中国への輸出品(長物)にも使われた。

江戸時代の製塩業

塩田法によって生産が増え、瀬戸内海の諸藩では専売品として奨励した。赤穂(兵庫県)が有名。

江戸時代の鉱業

金・銀・銅は、貿易の最大の輸出品で、貨幣の原料でもあるため、幕府はおもな鉱山を直轄地とし採掘した。

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【工業】江戸の工業

貨幣経済が広がり、肥料や農具を買うため、農民も貨幣を用いるようになった。農民の貧富の格差が拡大。

  • 手工業の変化…問屋制家内工業から工場制手工業へ
  • 問屋制家内工業…問屋から原料をかりうけた農家が行った。はたおりなどの手工業。
  • 工場制手工業(マニュファクチュア)…商人や地主から工場をつくり、人をやとって行う。19世紀ごろから登場。

一揆

  • 百姓一揆…農民が領主に対しておこした暴動。
  • 打ちこわし…米を買い占め値段をつりあげた商人に対して都市の大衆がおこした暴動。

手工業の発達

簡屋制家内工業という城下町の職人や農村の副業として手工業が盛んになり、大商人が道具や材料を貸して製品をつくらせるという問屋制家内工業が生まれた。

工場制手工業

19世紀になって商品の需要が増えると、問屋制家内工業による生産では商品が追いつかなくなったため、一部の問屋商人や大地主は、労働者を作業場に集め、道具を使って分業と協業で生産するしくみをつくりだした。これを工場制手工業(マニュファクチュア)といい、すでに17世紀にこの形態が見られた伊丹や灘(兵庫県)の酒造業をはじめ、桐生 (群馬県)・足利(栃木県)の絹織物業、野田や銚子(千葉県) のしょうゆ醸造業、川口(埼玉県)の鋳物業、大阪周辺や尾張(愛知県)の綿織物業などで多く見られた。

工場制手工業が広まり、大量の商品が全国に行きわたるようになると、農村の自給自足経済がくずれ、幕府や藩の封建支配をゆり動かす力となっていった。また、江戸時代後期の工場制手工業は、明治時代に入って近代工業が発達するもとになった。

諸藩の産業奨励によって、江戸時代中期になると各地にさまざまな特産物が生まれた。

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【商業】江戸時代の商業

諸産業の発達と交通の発達にともなって、商業がさかんになり、多くの商人が活躍した。諸藩は年貢米や特産物を貨幣にかえるため、大阪の蔵屋敷に運び、特定の商人に管理と売買にあたらせた。これらの物資を蔵物といい、もっとも重要な商品であった。いっぽう、民間からでた商品も全国に出回るようになり、納屋物とよばれた。

商人の専門化

商人の専門化がすすみ、問屋・仲買・小売商などの区別ができた。また、地方を商売してまわる行商人も増え,近江商人(滋賀県)や伊勢商人 (三重県)、さらに富山の薬売りが活躍した。

株仲間

商人のなかには営業の独占をねらって、株仲間という同業組合をつくるものもあらわれた。幕府ははじめこれを禁止したが、商人を統制するためと、彼らが許可のみかえりとして納める冥加金・運上金を 獲得するために、株仲間を認めたため発展した。

卸売市場

商業の発展にともなって、1つの商品を専門的にあつかう卸売市場もできた。大阪堂島の米市、江戸日本橋の魚市などが有名である。

貨幣制度と金融業

幕府は経済を統制するため、貨幣の鋳造権を独占して、勘定奉行の監督のもと、金座・銀座・銭座で、それぞれ金貨・銀貨・銅貨をつくらせた。

藩札
諸藩では幕府の許可をえて、藩内だけで通用する藩札という紙幣を発行した。

両替商
貨幣の流通にともなって、手数料をとって貨幣の交換を行う両替商があらわれた。彼らは預金や貸付も行うようになり、さらに為替・手形を発行して信用取引の業務も行うようになっていった。

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【交通】江戸時代の交通

勤交代や産業の発達による物資の輸送のために交通が発達し幕府も全国支配の必要から整備につとめた。

五街道の整備

江戸の日本橋を中心とした五街道が中心的な道路として整備され、脇街道も多くつくられた。街道には並木を植えた一里塚がおかれて、旅人の便利がはかられた。

  • 東海道…江戸~京都。
  • 中山道…江戸~草津(滋賀県)。
  • 奥州道中…江戸~白河(福島県)。
  • 日光道中…江戸~日光(栃木県)。
  • 甲州道中…江戸~甲府(山梨県)。

宿場の発達

街道すじには宿場が設けられ馬・かご・人足が用意された。人馬が不足した時には、周辺の農村から助郷役として人馬が徴発された。宿場には、大名や幕府の役人が泊る本陣・脇本陣や民衆用の旅籠もつくられた。

関所の設置

幕府は江戸の防備のため, 箱根(神奈川県)などの主要な場所に関所をおいて通行人をきびしく取りしまった。

飛脚の制度

通信のために飛脚が用いられた。幕府が管理した飛脚を継飛脚といい、宿場ごとにリレー式に運んだ。その他大名の大名飛脚や町人が営む町 飛脚などがあった。大量の物資を運ぶには、船による輸送が便利であったので、沿岸の海上や河川を利用した水上交通が発達した。

沿海航路の開発

江戸・大阪間を結ぶことがもっとも重要であったので、ここには定期航路が開かれ、菱垣廻船・樽廻船などの定期船が運航した。河村瑞賢によって日本海を通る西廻り航路と太平洋を通る東廻り航路が開かれ、東北地方や日本海側でとれた米や産物が大阪・江戸に運ばれた。

河川の船運

17世紀はじめ、京都の角倉了以が富士川・天竜川(以上静岡県)や保津川・高瀬川(以上京 都府)を開いた。17世紀末には河村瑞賢が大阪の安治川を開き、内陸との交通が便利になった。

三都の繁栄

江戸・大阪・京都が栄える。

  • 江戸…政治の中心地。将軍のお膝元と呼ばれる。
  • 大阪…商業・金融の中心地。天下の台所と呼ばれ、諸藩の蔵屋敷が置かれた。
  • 京都…文化の中心。西陣織などの優れた工芸品。
  • 株仲間…大商人の同業者組合。都市での営業を独占。

人や物の行き来がさかんになり、都市は活気にあふれた

外国船の襲来

通商を求めて日本に接近する欧米諸国の船が増えた。しかし、幕府は外国からの接触を拒絶し鎖国政策を続けた。

  • 外国船の接近…19世紀になるとロシア・イギリス・アメリカの船が日本に近づくようになった。
  • 異国船打払令…1825年沿岸防護と外国船追放が目的。外国船の打ち払いを批判した学者は厳しく処罰された。
  • 大塩の乱…1837年大塩平八郎が天保の飢饉に対する奉行所の対応不満として起こした反乱。
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【文化】江戸時代の文化

元禄文化と化政文化の比較表

元禄文化のポイント

元禄文化の覚え方
綱吉の時代の上方を中心に町人の文化が栄えた。上方(京都・大阪が中心)都市の勢いを表す経済力をつけた町人による新しい文化。

  • 朱子学…儒学の1つで、身分の上下を重視する考え方。五代将軍徳川綱吉が幕府の学問とした。
  • 浮世絵…版画として売られ、一般に広まる。
  • 松尾芭蕉…俳諧を芸術にまで高め、「奥の細道」を表す。

浮世草子や歌舞伎など多くの大衆文化が発達した。

化政文化

化政文化の覚え方
幕府が奨励した朱子学のほか、国学・蘭学が発達した。化政文化は、19世紀の初めの江戸の庶民が担い手となった大衆文化である。教育の広がり、寺子屋や私塾が、庶民に教育を広めた。江戸時代後半、文化の中心は上方から江戸に移り、庶民の間の教育が普及しました。

  • 国学…日本の古典を研究する学問。
  • 本居宣長…日本の古典を研究。「古事記伝」を著す。
  • 蘭学…オランダ語を通じ、ヨーロッパ文化を研究する学問。
  • 杉田玄白…ヨーロッパの解剖書を翻訳し、「解体新書」出版。
  • 伊能忠敬…全国の海岸線を測量。正確な日本地図を作る。
  • 寺子屋…町や農村で、庶民に実用知識を教える。
  • 藩校…藩がつくった、武士の人材育成のための学校。

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