中学歴史「江戸幕府成立のしくみと身分制度まとめ」です。
江戸幕府の成立
三河(愛知県)の小さな大名だった徳川家康は、織田信長と同盟を結び、豊臣秀吉が実権をにぎると、家臣となった。秀吉が北条氏を滅ぼすと関東の地をあたえられ(1590年)、江戸を本拠地として、実力をたくわえていった。
豊臣秀吉の死後、豊臣政権の力が弱まり、徳川家康の勢力がのびてくると、豊臣氏をもり立てようとする石田三成らが家康を倒そうとして、1600年に兵をあげた(関ヶ原の戦い)。徳川家康を中心とする東軍と三成らの西軍に分かれて、18万余りの軍勢が激突したが、この関ヶ原の戦いに勝った家康は、豊臣秀頼(秀吉の子)を一大名の地位に落として、天下の実権をにぎった。
江戸幕府のしくみ
1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた。以後の約260年間を江戸時代という。幕府を開いたとはいえ、大阪城には豊臣秀頼がいて、父の豊臣秀吉の後継者とみる大名もいた。
そこで徳川家康は、徳川家が代々将軍職をつとめる家がらであることを示すために子の徳川秀忠を2代将軍としたが、自らは政治の実権は手放さなかった。さらに政権を安泰にする。1614・1615年の2度にわたって大阪城を攻めて、豊臣氏を滅ぼしこれを、大阪冬の陣・夏の陣という。
禁中並公家諸法度
幕府は朝廷や公家が政治に関与するようになると、自ら権力をふるったり、他の大名に利用されたりするおそれがあり、幕府の支配がおびやかされると考えたため、禁中並公家諸法度を出して、天皇や公家の行動を制限し、朝廷が政治に関与することを禁じたうえ、京都所司代に朝廷の動きをきびしく監視させた。さらに、寺社に対しても法度を定め、寺社奉行を通じて統制した。
江戸の身分
江戸時代は、身分の区分がさらに細かく定められた。
- 武士…名字・帯刀を許された支配身分。武士道を守る。
- 町人…武士とともに城下町に住まわれた。
- 百姓…人口の約85%。本百姓と水のみ百姓。5人組の制度で年貢の納入などの連帯責任は負わされた。
兵農分離によって定めた身分制度がより強いものとなった。
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