中学歴史「平安時代のまとめ」です。
平安時代
桓武天皇は、都を平安京(現在の京都)に移し、政治を立て直す。これ以後の約400年を平安時代といいます。坂上田村麻呂は、東北地方の蝦夷をおさえるために征夷大将軍に任命されます。
東北地方の進出
東北地方には蝦夷とよばれる。言葉や生活習慣が異なる人々が狩猟と農耕中心の生活をしていた。奈良時代から朝廷は開拓を進め、農民を移住させるなどして、支配を進めたが、蝦夷は反乱をおこすなどして根強く抵抗していた。797年、桓武天皇から征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂は、胆沢地方(現在の岩手県水沢市付近)を中心とした 指導者のアテルイが率いる暇夷を破り、胆沢城や志波城を築いて、朝廷による支配を広げていった。
唐風文化
平安時代の初期には唐風文化が全盛となり、漢文学が栄え、漢詩文や書道は貴族の教養とされ、菅原道真や空海が文人としても活躍した。また、新しい仏教(密教)の影響を受けて、寺院は山中に建てられるようになり、神秘的な仏教美術が栄えた。室生寺(奈良県)の五重塔や金堂、観心寺(大阪府)の如意輪観音像などが、この時代を代表する遺産として有名である。
摂関政治
自分の娘を天皇きさきにして、その子を次の天皇とし、天皇が幼いときに摂政、成長後は関白として政治の実権を握る。
- 藤原道長・頼道…摂関政治を最も盛んに行う。
- 荘園…朝廷の重要な地位を独占した藤原氏は、地方の政治を任された国司から多くの寄付を受け、荘園と呼ばれる私有地を増やす。
藤原氏は、奈良時代から力をのばしてきたが、平安時代になると、他の有力貴族をおとしいれたりして勢力を増した。さらに、娘を天皇の后とし、孫を天皇にすることによって、強大な勢力を築いた。そして、 9世紀の後半、 藤原良房が摂政となり、その養子の藤原基経は関白となって、天皇にかわり政治の実権をにぎった。
藤原基経の死後、宇多天皇・醍醐天皇は関白をおかず、菅原道真など藤原氏以外の貴族も用いて政治を行った。また、10世紀の中ごろの村上天皇も関白をおかなかった。しかし、10世紀の中ごろ以後になると、たえず摂政・関白がおかれ、藤原氏が任命された。藤原氏が摂政・関白として政治の実権をにぎった11世紀後半までの政治を摂関政治という。藤原氏の一族は、朝廷の高位を独占し、ばくだいな収入を得て栄華をきわめ、11世紀前半の藤原道長・藤原頼通の父子の時代に全盛をほこった。
地方政治の変化
平安時代になると,鉄製農具がひろく普及し、農民のなかから大規模な農業経営を行う田堵とよばれる有力農民があらわれた。10世紀になると, 班田収授は行われなくなり、かわって田堵に田地の耕作を請け負わせて税をとる制度が成立した。また,朝廷は、国司に地方の政治をまかせきりにし、国司は、決まった額の税を朝廷におさめれば、残りは自分の収入とすることができたので、さまざまな手段で私財をふやすものが多くなった。
国風文化
日本の風土や生活に合った独自の文化。
- 仮名文字…漢字を変形させ、日本語の発音を表す。
- 浄土信仰…念仏を唱え、阿弥陀如来にすがる。
- 平等院鳳凰堂…藤原頼道が宇治に建てた阿弥陀堂。
新しい宗教が、唐から帰国した僧たちが広める。
- 最澄…比叡山に延暦寺を建て、天台宗を広める。
- 空海…高野山に金剛峯寺を建て、真言宗を広める。
遣唐使の停止…9世紀丸末に唐の国内が混乱し、勢力がおとろえたため、菅原道真の真言で遣唐使を停止した。
院政
11世紀の中ごろ、藤原氏と外戚関係のない後三条天皇が即位すると、自ら政治を行って藤原氏の力をおさえようとした。たとえば、記録所を設けて藤原氏などの有力な貴族の荘園を整理し、その経済力を弱めようとしました。
この政策は大きな効果はなかったが、藤原氏の勢力はしだいに弱まりそれとともに摂関政治も終わりをむかえた。
自分の娘を天皇きさきにして、その子を次の天皇とし、天皇が幼いときに摂政、成長後は関白として政治の実権を握る政治。藤原道長・頼道親子の時、摂関政治を最も盛んに行う。
父の跡をついだ白河天皇は、1086年に位を幼少の皇子にゆずって上皇となり、院(上皇とその御所)で政治を行った。 この政治を院政といい、以後、実質的に約100年間続いた。
荘園の寄進
院政が始まると、院に多くの荘園が寄進(注1)された。 院政が始まると、上皇は摂関家をおさえ、これまでの法律や慣習を破って、専制的な政治を行った。多くの貴族や豪族は院に荘園を寄進し、院の経済力が高まっていった。
社寺等に物品や金銭を寄付すること。
藤原氏への不満
藤原氏に不満をもつ貴族や国司、中央進出をねらう武士などが院に集まり、北面の武士が警備にあたった。白河上皇が仏教を厚く崇拝したので、興福寺・東大寺・ 延暦寺などの大寺院は力を強めた。
こうした大寺院は兵 (守を守るために武器を持って戦う僧)を養い、院に対してしばしば強訴(集団でおしかけて訴えること)して、上皇を困らせた。
院はこれを阻止するために武士の力を必要とし、平氏は以後、院と結びついて勢力をのばしていった。
平氏と地方の反乱
1156年、崇徳上皇と後白河天皇の対立に加え、藤原摂関家の内部で氏長者(氏の統率者)の地位をめぐって兄弟の争いがおこり、武士をまきこんで保元の乱がおこった。
保元の乱
平安京を舞台にして戦われたこの戦乱は、わずか数時間にして、平清盛・源義朝が味方した天皇方が勝ち、2人は、武士の棟梁(かしら)として中央政界に進出していった。しかし、乱後の恩賞は平清盛に厚く、源義朝には不満だった。
平治の乱
1159年には、院の近臣(上皇の側近)の内部争いに平清盛と源義朝の対立がからんで、平治の乱がおこった。この乱にも平清盛が勝って、敗れた義朝の子の頼朝は伊豆国(静岡県)に流された。上皇・藤原氏・源氏の勢いはおとろえ、平氏はやがて、全盛期をむかえることになりました。
平清盛の政治
平清盛は太政大臣になり、政権をにぎった。 1167年、平清盛は武士として初めて太政大臣になり、貴族に代わって政権をにぎった。平清盛は藤原氏と同様に、娘を后にして天皇の外戚(母方の親戚)となり(娘の徳子が高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだ)、平氏一族を朝廷の高位高官や国司につけた。また、60余国のうちの30余か国と500か所余りの荘園を支配し、栄華をほこった。
日宋貿易
遣唐使の停止以後、大陸との交流は公的には絶えたが 10世紀末から宋(中国)の商人が博多(福岡県)などに来航し、私貿易が行われていた。清盛は大輪田泊(現在の神戸港)を修築するなどして瀬戸内海航路の安全をはかり、宋(南宋)と積極的に日宋貿易をすすめて、大きな利益を得た。
- 輸出…硫黄・刀剣・漆器など
- 輸入…宋銭 (銅銭)・絹織物・陶磁器・書籍などの「唐物」
平氏の滅亡
平氏一族は栄華をほこり、朝廷の政治を思うままに動かした。しかし、こうした独裁的な政治に地方の武士は不満をいだき、後白河上皇を はじめ、貴族・寺社も反感を強めた。平清盛は反平氏の動きを弾圧したが、かえって平氏打倒の動きは強まっていった。
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